古関裕而とは

:プロフィール・業績

古関裕而とは

古関裕而(本名、古関勇治)は、明治42(1909)年福島市大町に生まれ、昭和5(1930)年9月に日本コロムビア(株)に作曲家として入社、以来、作曲活動を継続し、戦前においては「露営の歌」(昭和12:1937)、「暁に祈る」(昭和15:1940)等の歴史的作品を残したほか、戦後の荒廃した社会の中にあっては「とんがり帽子」「長崎の鐘」等未来へ希望を抱かせる明るい歌謡作品を発表し多く人に愛唱されています。
さらに、菊田一夫氏とのコンビで昭和22(1947)年以降は放送作品に力をそそぎ、NHKラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」「さくらんぼ大将」「君の名は」等の主題歌を発表し一世を風靡したことはあまりにも有名です。こうした数々の放送関係における業績により同28(1953)年NHK放送文化賞を受賞しました。また、昭和39(1964)年アジアで初めて開催されました東京オリンピックの選手入場行進曲「オリンピック・マーチ」 を作曲しました。
作曲作品総数は、5,000曲にもおよび、スポーツ・ラジオドラマ・歌謡曲・演劇・校歌・社歌等、多岐にわたっています。こうした一連の功績によって昭和44(1969)年には紫綬褒章を受章しています。
また、昭和54(1979)年4月には福島市名誉市民第一号となり、その功績と栄誉をたたえられています。

日本歌謡史に残る不滅のメロディ

古関裕而(本名、古関勇治)は、明治42(1909)年福島市大町に生まれ、昭和5(1930)年9月に日本コロムビア(株)に作曲家として入社、以来、作曲活動を継続し、戦前においては「露営の歌」(昭和12:1937)、「暁に祈る」(昭和15:1940)等の歴史的作品を残したほか、戦後の荒廃した社会の中にあっては「とんがり帽子」「長崎の鐘」等未来へ希望を抱かせる明るい歌謡作品を発表し多く人に愛唱されています。
さらに、菊田一夫氏とのコンビで昭和22(1947)年以降は放送作品に力をそそぎ、NHKラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」「さくらんぼ大将」「君の名は」等の主題歌を発表し一世を風靡したことはあまりにも有名です。こうした数々の放送関係における業績により同28(1953)年NHK放送文化賞を受賞しました。また、昭和39(1964)年アジアで初めて開催されました東京オリンピックの選手入場行進曲「オリンピック・マーチ」 を作曲しました。
作曲作品総数は、5,000曲にもおよび、スポーツ・ラジオドラマ・歌謡曲・演劇・校歌・社歌等、多岐にわたっています。こうした一連の功績によって昭和44(1969)年には紫綬褒章を受章しています。
また、昭和54(1979)年4月には福島市名誉市民第一号となり、その功績と栄誉をたたえられています。

栄光のスポーツ音楽

古関裕而の音楽に一貫して流れる清潔感は、スポーツ音楽という独特の世界にも表現されています。
昭和6(1931)年、早稲田大学第六応援歌として作られた「紺碧(こんぺき)の空」は、現在では第一応援歌として校歌とともに親しまれています。
『誰もが歌える健全な歌』をモットーに、庶民的でありながらも気品をそなえた古関メロディーは、やがてあらゆるジャンルのスポーツの祭典に欠かすことのできないものとなりました。高校野球、プロ野球、スキー、スポーツ番組テーマ曲など名曲の数々…。その集大成ともいえる作品が、昭和39(1964)年の東京オリンピックのために作曲された「オリンピック・マーチ」でした。

放送・劇場・映画音楽

『私の音楽の最大の理解者、菊田一夫』 古関自身のこの言葉にあるように、昭和12(1937)年に初めて出会った二人は、その後、おしどり夫婦のような名コンビとして、戦中・戦後を通じて、放送・演劇史上に大きな足跡を残しました。NHK連続ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌である「とんがり帽子」、放送時間には、女湯がからになったことで有名な『君の名は』など、戦争という悲劇のあと、不安と希望の交叉する庶民生活に送り出された名曲の数々。それらは、人々の心に計り知れないうるおいとなって溶け込んでいきました。
菊田一夫とのコンビによる活動は、「放浪記」などの舞台・劇場音楽へと発展し、菊田一夫が亡くなるまでの36年間続けられました。菊田の死は、『菊田さんが幕を降ろしたのなら、私もそうしようかと思った』というほど、古関にとって衝撃的なことでした。

古関作曲の校歌

古関は、中央における音楽活動のほかに、福島県のみならず全国各学校の校歌や応援歌を作曲して、多くの感動を与えていた。県内では百一校の校歌・応援歌を作曲している。

―小豆が作曲のお礼
校歌の作曲に関して古関の二女である高橋紀子は、次のようなエピソードを披露してくれました。
『四十年位前のある日、北海道のある小学校の校長先生からの手紙が届きました。その手紙は、「古関裕而先生の歌が大好きなので、校歌を作曲してもらいたいが、小さな学校なので予算がなく、お礼らしいお礼が出来ない。それでも、もしかしたら作曲して下さるかもと、思い切って手紙をだしました」とのこと。この校長先生の手紙に父の心は動き、「お礼は結構です」と伝えて、校歌を作曲して送りました。校歌が出来て喜ばれた校長先生から、お礼の手紙と共に、学校の生徒たちからのお礼ですと、一斗缶入りの小豆が届きました。その小豆は、校歌のお礼にと一人一握りずつ、小豆を家から持ち寄った、心のこもったお礼でした。母はお汁粉やおはぎを作るのが得意なので、その小豆でせっせと作り、甘党な父はこれをよろこんで食べました。これが作曲のお礼と思うと、格別な味で、私にとっても嬉しいことでした』

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