思い出・エピソード

福島市では、古関裕而・金子夫妻や古関メロディーにまつわるエピソードを広く募集し、古関裕而を生かしたまちづくり事業の中で活用しています。

ここでは、皆様からお寄せいただいたエピソードの一部をご紹介します。
※年齢は応募いただいた当時のものです。(順不同)

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福島市市民・文化スポーツ部文化スポーツ振興室文化振興課
TEL 024-525-3785

今野 順子 様(宮城県 63歳)

『私と古関裕而という大伯父さん』  この度、お便りをさしあげます私は、今野順子(よりこ)と申しまして、古関裕而の姪の子に当たる者です。私の母のいとこが裕而の娘と結婚し、その父裕而は母の義理の伯父になりました。従って私から見れば、裕而は大伯父ということになります。私は現在、小学校の教員を退職しまして、宮城県石巻市の自宅でのんびり暮らす六十三才です。

 昔、私が三、四才の頃、母の実家で大伯父に会ったことをよく覚えています。祖母が古関の大伯父を私の前に連れて来て、こう言ったのです。 「順子、この人は古関のおずさんだがら、よぐ覚えでおがいんよ。」

 石巻弁でなまりながら、はっきりこう言った事をよく覚えています。まさに「三つ子の魂百まで」ではありませんが、ニコニコしながら私の前に立っていた大伯父のことは忘れられません。また大伯父は家にあったオルガンをよく弾いて、祖父が弾くバイオリンと合奏していたと母は言っておりました。祖父は、残念ながら戦争中に病気で亡くなってしまったので、私は会ったことがないのですが、バイオリン演奏と短歌を作ることが趣味でした。三男坊なので、別家に出て、本家のすぐ近くに家を建ててもらって暮らしていましたが、なにせ本家はかなりの大地主だったので、祖父は本家からの年金のお陰で、かなり裕福な暮しができたようです。それで、バイオリンを習ったり、短歌を嗜んだりできたのです。そして年に一度は、短歌の句会を開き、正岡子規の弟子である高浜虚子を東京から呼んで、指導していただいたとのこと。石巻の裕福な商家のダンナさん方も招いてご馳走していたようです。古関の大伯父もきっとこの会に参加したにちがいありません。

 さて、私の話に戻りますが、小学校二年生になった私は、学校で東京オリンピックの記録映画を見せられました。(監督は市川昆氏、一九六四年)当時、家にはテレビがありませんでした。上映開始、次に画面いっぱいに古関の大伯父が映りました。なんと棒を振り回していました。びっくり。何をしているのだろうと思いました。でも、とても懐かしかった。家に帰ってから父に、「今日、おじさんが映画に出て棒を振り回していたよ。なんで?」と話したら、父が「ああいう仕事なんだ。」と一言で片付けました。音楽に合わせて棒を振り回すことが仕事なのか?と子ども心に不思議でした。指揮棒(タクト)を振って楽団を指揮するなんてことを知るはずのない小学校二年生でした。まして、オリンピックマーチの作曲者だったなんて。驚きです。

 時が過ぎて、福島大学教育学部に入学した私は(よりによって福島大学です)小学校課程が主専攻でしたが、副専攻を何にするか迷っていました。歴史好きな私は、社会科にしようかな、などと考えたりもしていました。その内、たまたま実家に帰った時、道端で小学校の恩師阿部校長先生と出会い、そこで大学のことを話すと先生は、「君はピアノを小学校の頃から習っていたね。音楽の免許を取りなさい。小学校の先生でピアノ演奏が堪能ならば、就職の時、ひっぱりだこだよ。」とおっしゃいました。それで、小学校の教員免許に加えて中学校と高校の音楽の教員免許も取りました。そして教員採用試験を受けたら、はたしてその通り私は希望の任地に着くことができました。こうした事を経験すると、古関の大伯父と祖父が楽しんだ音楽が、母を通して私に間接的に好影響を及ぼしてくれた様な気がします。また副専攻の授業の場で知り合った女性が 、私の親友になってくれたということも、大きな収穫でした。彼女は声楽が特に得意で、現在は福島駅の裏側に暮らしていますが、私と同じで教員を退職してから年に一度は石巻遊びに来て、「登米薪能」を鑑賞して行きます。その彼女が、大伯父がNHK の朝ドラの主人公になる話を教えてくれたのです。福島市の名誉市民でもある彼のことは、福島県では有名でも、宮城県ではそれ程でもないのです。最も七十才以上の人達の間ではかなり有名ですが、私達六十才代になると知らない人も多いのです。そんな中、朝ドラだけでなく、福島の町ぐるみで大伯父のことを取り上げていただけるなんて、本当に喜ばしい限りです。こうしたエピソードを書ける日が来るなんて、思いもよりませんでした。

 また時が過ぎて平成十八年。私がよく行く喫茶店のカウンターでコーヒーを飲んでいると、すぐ近くの席に座っていた同年輩の男性がこう言い始めました。 「あの作曲家の古関裕而に、公演会のような会があって、その関係者と会って来た。(うんぬん)」古関という名が出たのでは、黙っていられません。「あの、失礼ですが、古関は私の大伯父なのですが、あなたは?」「この方は、八幡町で皮膚科医院を開業されている石巻医師会所属の方です。」とマスターが紹介してくださいました。それからいろいろ話をしている内に、この先生はピアノ演奏がとてもお上手で、クラシック音楽鑑賞等にご趣味をお持ちだということが分かりました。そして近々石巻日赤病院で、石巻医師会の有志が寄贈したグランドピアノの御披露目会があり、そこでピアノ演奏をするので、よかったら聴きにいらっしゃいとお招きくださいました。当日になり行ってみると、患者さんはじめ病院関係者の方々がたくさん聴きに集まっておられました。そこで、先生はピアノ演奏をされたのですが、プロ級の腕前なので、私は驚いてしまいました。後日、私が演奏について賞賛すると先生は、本当はピアニストになりたかった旨を話されました。なるほどと思いました。その後先生はご自分の演奏会をするたびに、私を呼んでくださるようになりました。そしてとうとうご自分の演奏会を行う音楽ホールをご自宅の近くにお建てになりました。そして有名な演奏家を国内、または海外からも呼んで、私達にわずかな費用で聴かせて下さるようになったのです。もちろんご自身の演奏会もよく行われ、若い頃から念願だったベートーベンのソナタ全曲をこの三月で完奏されます。私はこうした催しを、かつて母の実家で祖父が行っていたであろう短歌の句会と同様な、優雅な遊びと捕らえるようになりました。ひょっとすると昔は古関の大伯父も参加していて、句会の合間にバイオリンとオルガンのアンサンブル演奏などを披露したのかもしれない…と想像してみたりもするのです。先生としては、こうした催しを「ダンケの遊び」(我地方ではダンナさんの道楽遊びのことをこう呼びました。)としてではなく、少しでも多くの人に音楽の楽しさを味わってもらいたいと願って始めたとのことですが。いずれにしても、私にとってはこの上もなくありがたい催しなのです。そして、この方と知り合いになるきっかけになった古関のオジにも、とても感謝しています。加えて石巻医師会の中には大伯父のファンで「高原列車」を十八番にして歌って楽しんでおられるドクターもいらっしゃいます。ほんとうに嬉しい限りです。

 長々と書き綴って参りましたが、振り返ってみますと、私の人生の大事な局面に於て、大きな影響を及ぼした古関の大伯父さんとのエピソード(縁)は、まさにあの世からの「エール」だったのではないか、と思えるのです。祖母が「…よぐ覚えでおがいんよ!」と言った通りに、覚えておいてよかったなあ、とつくづく感謝するこの頃です。

石田 次男 様(福島市 74歳)

『オリンピック・マーチ』  作曲家古関裕而さんの音楽活動は、終戦を境にハトが解き放されたように、平和を希求する曲へと変わった。その原点は、戦意発揚という不本意な軍靴の作曲を強いられ、心を痛めたに違いない自身の戦時体験から生まれたと言われている。まだ戦災の爪痕が残る1949年(昭和24年)、人々の心に染み入るように、瞬く間に全国に広がった歌がある。壮大な鎮魂歌、すなわち「長崎の鐘」である。この曲と共に、古関メロディーの双璧を成すのが、世界平和を込めた「オリンピック・マーチ」である。

 1964年(昭和39年)は私の人生にとっては特別な年。4月に進学のため、生まれ育った相馬を離れ上京、10月には平和の祭典、東京五輪が開かれたからだ。ずいぶん前のことで、当時の記憶は今ではほとんどない。ただ、東京五輪のワンシーンだけは鮮明に残った。開会式を彩ったオープニングソング「オリンピック・マーチ」の記憶である。言うまでもなく、この曲は古関さん渾身の創作であり、数多い古関メロディーの中でも、ご自身が最も気に入っていたといわれる。当時、私は都内の兄の住むアパートの一間に1年近く居候していた。五輪ムードに沸く東京の街は、どこも活気にあふれていた。一方、田舎育ちの私には、東京はまるで別の世界だった。都会生活に馴染めず、悶々とした日々を送っていた。そして快晴の10月10日を迎えた。真っ青に晴れ渡った空の下、大観衆で埋め尽くされた国立競技場に開会を告げるオリンピック・マーチが流れた。各国選手団の入場行進が始まり、実況アナウンサーはこの時の情景を次のような出だしで語り始めた。「心も浮き立つような古関裕而作曲、オリンピック・マーチが鳴り響きます」と。その場内を圧倒する様はまさに感動と躍動感そのもの、鳥肌が立つほど衝撃的だった。身動きもせず吸い込まれるように、私はただ聴き入った。そして心の中で叫んだ。「今の自分ではだめだ」と。すると霧がすーと晴れるように、己を奮い立たせるもう一人の自分がいることに気づかされた。まさに、それは失いかけていた自分を取り戻すきっかけとなったのだ。

 今でもこの曲を聴くと、開会式のシーンを懐かしく思い出す。そんな時、決まって足は古関裕而記念館へ向くのだ。同館2階の視聴コーナーで、耳にレシーバーを当て、心ゆくまで堪能している。こんな時、作曲家古関裕而の秀でた音楽的才能を改めて感じるのだ。まだある。古関さんは単なる流行歌(はやりうた)の作者にあらず、ということだ。若い頃、クラッシックを独学で学んだ。この曲のスケール感といい、クラッシックの香りが染みる格調高い曲調になっているのはそのためであり、同時に日本のスポーツ音楽の最高傑作といっても過言ではない。名曲「オリンピック・マーチ」は、オーケストラによる生演奏が一番よく似合う。願わくば、久しくご無沙汰してる圧巻の演奏が、遠からず必ずや拝聴できるだろうと心待ちにしている。

久能 彩香 様(福島市 32歳)

『古関裕而夫妻・古関メロディーからのエール』  H11年に小学校6年生だった私は、附属小学校合唱部として古関裕而記念音楽祭で「さくらんぼ大将」と「とんがり帽子」を歌いました。(公会堂・森口博子さんと共演)古関先生の母校だということで、附属小の私たちが先輩の作曲した曲を歌ったのだと思います。そのときから、私の中にはいつも古関メロディーが息づいており、中学生となり、市の少年少女合唱団に入ってからも、様々な古関メロディーを歌ってきました。その時に先生から教わった古関メロディーは私の宝物です。

 そして現在、私は福島市内で小学校の先生となり、学級の子どもたちに古関先生について授業で教えています。また、放課後は合唱部の指揮者として、部の子どもたちに古関メロディーを教えています。 敬老会や地区文化祭などで合唱部は「とんがり帽子」などの曲を歌いました。

 古関メロディーを教わって歌う立場だった私が、子どもたち古関メロディーを伝えていく立場になったんだなあ・・と、最近しみじみ思います。これも古関先生がつないでくださった歌のご縁なのかなあと感じます。これからも子どもたちに古関メロディーを伝えていけるように、仕事をがんばっていきたいです。

引地 洲夫 様(福島市 80歳)

『古関裕而メロディは 我が人生の応援歌』

「とんがり帽子」

 NHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌 鐘の音で始まる「とんがり帽子」健気に生きる戦災孤児たちの物語に 満州から生と死のはざまを生き延びてきて 十月に孤独な小学一年生になった私は ラジオの前に釘づけになって、古関裕而先生のハモンドオルガンの優しい音色に心癒される日々を過ごしていた。

「風の子」

 映画「風の子」の主題歌 奇しくもこの映画の川端康成氏に推賞された戦時中疎開した一家の実話 「引越物語」が掲載された 少年少女雑誌「赤とんぼ」に小学二年生の私の作文「お父ちゃんがかえるまで」が掲載され 後のノーベル文学賞受賞者 川端康成氏の直筆のサインを「赤とんぼ」から切り取って保原小で作文のご指導を頂いた故飯沼静江先生の手紙と共に作文に貼りつけ、生涯の宝となっている。

「福商青春歌」

 小学六年生の時 福島商業高校甲子園初出場を果たした安積高校との試合 福島商業高校OBの父と信夫ヶ丘球場のスタンドで聴いた「福島商業青春歌」いい歌だなあと小学生の私の心に深くしみいるものがあった。福島商業高校入学時の応援歌の猛練習 応援団の猛者たちも青春歌の指導のときは心和むような雰囲気を醸し出していた。 創立六十周年記念 新校歌の歌唱指導に訪れた四十八才の古関裕而先生が全校生徒の青春歌の大合唱に「私が東京に旅立つ日 二十才の時 作曲した これからも唱い継がれていくことを望む…」と涙ぐまれていた。十八才の私の胸に「青春歌」が深く刻み込まれた。「私は音楽家になりたいと あきらめないで 自分で努力して 音楽の道に生きています 皆さんも何かになりたいと思ったらあきらめないで努力することです。」 商業高校に学ぶ私が実業界から自ら希望する教育界に転ずる一言でもあった。 創立八十周年記念母校に青春歌碑建立の日 序幕式に訪れた古関裕而先生が「これまでいろいろな曲が石に刻まれてきたが、福商青春歌ほど嬉しい歌碑はない」と喜ばれていた。 「青春歌は私が二十才の時の作曲だから若い高校生も共感して唱ってもらえるんだね」古関裕而先生のなにげない言葉にあるように、八十才の私自身も「青春歌」のおかげで常に若者と青春を共にできる喜びを感じている。

「古関裕而メロディと共にあった私の家族」

 七つボタンに慣れていた 海軍志望の五つ年上の次兄を看とった時「若鷲の歌」に微かに閉じていた瞼を微かに開けた… 八つ年上のハルピン中学のグライダー部で戦闘機に憧れていた長兄は健在だが「ラバウル海軍航空隊」の歌か「雷撃隊出勤の歌(穂高よさらば)」が良く似合う古関裕而の催したレコードコンサート等に賛助出演して尺八の魅力を伝えた私の父 都山流尺八 竹林軒大師範 初代引地衆山(松治郎)は尺八を取り入れた「利根の舟唄」と「船頭小唄」を酔うと口ずさんでいた…本宮町を訪れた伊藤久男が父と酒間の中で「列車の中で鉛筆一本で曲を作るんだから古関君は天才だ」と褒めていたと「ハモニカ野郎もさすがに偉くなったな」とわが事のように喜んでいた。

「阪神タイガースの歌~六甲おろし~」

 母校福島商業高校の甲子園出場の開会式に「栄冠は君に輝く」のタクトを持つ古関裕而先生の笑顔に応えて甲子園で母校福島商業高校に勝利をもたらした左腕古溝克之がプロ野球界へ 阪神タイガースで月間MVP…「甲子園のマウンドに立って勝利を勝ち取った瞬間 六甲おろしの大合唱に囲まれた感激は野球人として最高の感激でした」青春歌に育まれた五十才を超えた福島商業の教え子は函館の高校の野球部監督として甲子園を目指している。

「わが人生と古関メロディー」

 私自身は小学校四校、中学校二校と転校を繰り返したが卒業した中村第一小学校と本宮中学校の校歌は古関裕而先生の作曲 福島商業高校も卒業式は新校歌「若き心」… 陸軍大将を夢見た幼い日々 父の出征を見送った「露営の歌」邦楽全盛の時代 父のもとに取材に訪れていた野村俊夫を東京に送り出す送別会の写真と「暁に祈る」の歌詞があった。軍歌と呼ばれる中に埋もれている名曲を「穂高よさらば」のように蘇らせたいとの思いがある…オリンピックマーチと共にオリンピック賛歌の素晴らしさも知らしめたい…野球殿堂入りの栄冠を古関裕而先輩にささげる夢の実現…阿武隈の桜、吾妻の夕映え、霊山の紅葉、信夫山の雪、故郷の自然に育まれた古関メロディーと共に 百周年記念事業に八十周年記念に使った 先生の青春歌の色紙を再度 使う許可をお願いした時 「僕の名前が母校の役に立つ時は使いなさい 母校だからいいよ…」 暖かい笑顔がよぎる 晩年には「日本にスーザがいるなんていわれてね」とオリンピックマーチを語る時一番嬉しそうだった。

 八十才の私に「青春の夢」を蘇させる古関メロディーは永遠に我が人生の応援歌である。

永井隆記念館 様(長崎市)

『戦争で被災を受けた多くの人々への応援歌にもなった「長崎の鐘」』  永井隆著書「長崎の鐘」の出版記念会で、作詞家サトウ・ハチロー氏は「この歌がみんなに歌われて病床の永井博士の耳に一日も早く伝わる事をボクは願ってる」と述べられた。

 また、誠一さんの著書の中では {古関氏は父が死去した翌年(昭和27年)春、如己堂に来られ、「時間に追われて、存命中にお見舞いできなくて残念でした」と語られた。} そして著書には「ぼくの心の中で鳴りひびきつづけた」とも書かれている。

 長崎市永井隆記念館が2000年に全面に改築して新たに開館する際展示室で「長崎の鐘」のオルゴールを流すことになったときに永井博士の次女茅乃さんは「この歌は重いので嫌いだ」…と…

 それでも「長崎の鐘」のメロディーの中、来場される多くの方に頑張り抜く事の大事さを永井博士に教えられた誠一さんと茅乃さんは、戦争がもたらした悲惨さや平和への思いを命尽きるまで語り継がれました。

 時はながれ今日も館内には「長崎の鐘」のメロディーがそれぞれの平和への思いを重ねながらおだやかに流れています。

長谷部 洋子 様(福島市 77歳)

『思い出すままに』  先日郵便局に行きました折、窓口にエピソード募集「古関裕而夫妻・古関メロディーからのエール」というチラシが置いてありました。「何か書けるかも知れない」。私は積んであったチラシの一枚を持ち帰り、子どもの頃に想いを巡らせました。

 私が小学生の低学年の時、定かではありませんが、昭和二十年代のことだったように思います。家には古びたラジオがあって、毎日夕方になると「さくらんぼ大将」という、子ども向けのドラマが放送されました。なにしろ六十数年前のことなので、内容は記憶にないのですが、そのドラマで毎回歌われた歌、「さくらんぼ大将」は何故かはっきりと思い出せました。

 春の川ぎし青葉のかげに さくらんぼ かくれんぼ さくらんぼ あかいほっぺたさくらんぼ大将 

 こんな歌詞だったように思います。このドラマは、日本がまだ戦後復興には、いたっていない時で、周りの家々は貧しい生活でした。そんな中にあっても子どもは大勢いて、遊びに夢中になりながら、覚えたての「さくらんぼ大将」を歌っていました。

 後に大人になって「さくらんぼ大将」を作曲されたのが、福島県出身の偉大な作曲家、古関裕而氏であったこと、またドラマの舞台となったのが福島市の茂庭であったことを知って、友人と茂庭までドライブしたほどです。

 子どもの頃、娯楽といえばラジオしかなかった時代、私たち子どもに大きな夢と希望を与えてくれた「さくらんぼ大将」いい思い出になっています。

宍戸 優子 様(郡山市 63歳)

 父は、長年福島商業高校に勤務しておりました。元々古関メロディのファンでしたので、「高原列車は行く」「長崎の鐘」等よく口ずさんでおりましたが、福商校歌は私が幼い頃、病弱な母に代わって家事を終えてから、毎晩のように歌ってくれていました。

 先日遺品を整理していると、昭和52年にかいていただいた、古関裕而氏直筆の「福商青春歌」の色紙が出てきました。ご本人にお会いできたことは、どんなに嬉しかったことでしょう。様々なことのあった父の人生。古関メロディを歌うことで、自身に家族に仕事にエールを送っていたのかなと思います。

 福島商業高校の校歌、青春歌を耳にする機会があると、なつかしさと共に、これからもこれらの曲が未来に繋がれていくのは、時代へのとても素敵な励ましだと思います。

向後 勇 様(東京都千代田区 73歳)

『緑の雨の…箱根路』  幼い頃の‥と言うよりは、一生の思い出となる、小学生の時の修学旅行。当時(昭和34年)は、高速道路もなく、交通手段の主役は煙を吐いて走る蒸気機関車であった。信じられない話ですが当時の食糧事情で‥宿で食べる御飯の為に各自2合位のお米を持参しての旅であった、そんな時世の思い出である。

 煙を吐きながらの臨時列車も東京からは大動脈、東海道本線の電気機関車に連結されての快適な(トンネルに入っても窓を閉めなくても良い)夢の旅となった。進行方向、右側はミカンの山、左は相模湾の輝く海・・わずか東京から熱海までの距離が名古屋か大阪くらいの長さに感じられた‥熱海駅で下車し、観光バスで箱根へ向う道すがら夕方近く十国峠を越える頃にバスガイド(もちろん美人だった と記憶して・・?)さんが車中で歌を唄って下さった‥

 ♬夢を結んだ、アノ芦ノ湖に、浮かぶボートの懐かしさ♪♪

 まだ幼い小学生にはロマンチックな歌詞の本当の意味は分からずとも‥その優しい暖かいメロディーは脳裏にしっかりと記憶され、バスを下りる頃には3番目まで口ずさんでいた。あれから…幾星霜‥どの歌手が?誰が作った曲?かも知らず、仕事の合間や車を運転中にも、消えかかる懐かしい旅を思い出しながら、時おり、いとおしく、口ずさんでいた‥。

 ある晩、仕事の残業と明日の準備をしながら、NHKラジオの深夜放送を耳の友としていた。なに気なくスイッチを入れたラジオから…懐かしい記憶を呼び戻すように‥あの曲が、あのメロディーが、大御所、藤山一郎氏の美声で流れていた‼ラジオ深夜便と言う番組で作家で綴る流行歌 と言う事で、その日は古関裕而先生が作られた曲を紹介する日だった。…50年ぶりに、やっと巡りあった、この曲、緑の雨と言うそうな。全国観光バス連合会の依頼で車中で楽しく歌える曲をと…古関先生が作曲した事を知った…。

 マイカー時代、到来の前、観光地巡りの花形は美人のガイドさんの美声を耳にしながらの旅であり、歌詞の中に出てくる‥カラーフィルムに残した君を~のカラーフィルムも未だ発売前だった事を、後から知った。いい歌(曲)は歌い続けられ、記憶と共に心の中で生き続けると言われている。この曲と出会って約半世紀…古関メロディーに支えられ、心の糧となり毎日の栄養剤にもなっている。 そうそう‥修学旅行の帰路は強羅から小田原まで登山電車で下ってきた‥山の天気の気まぐれか?時折、降る小雨が、新緑の樹木の葉を濡らし、それは、まさしく箱根路の緑の雨であった。

 ありがとう緑の雨、ありがとう古関裕而先生、ありがとう古関メロディー…

 いい曲は いつの世も そして いつまでも‥こころの応援歌として生き続ける事でしょう

岡崎 よしい 様(宮城県 73歳)

 去年8月10才年上の姉が亡くなり色々な事柄が想い起こしていた時白石市役所の通路の壁に「古関裕而夫妻古関メロディーからのエール」エピソードを募集します、が目に止まりました。「高原列車は行く」に若かりし日の兄と姉が偲ばれ青年団に入り色々な方々とのかかわりの中「高原列車は行く」をよく歌っていたのを想い出しました。

 麦踏みをしながら二人は日々口ずさんでおりました。私も兄と姉の手伝いをしながら知らず知らずの内に覚え口ずさむようになり兄と姉がつないでくれた忘れられない歌となりました。今でも少し歌える自分に驚いています。久しぶりに兄と姉に会えたような暖かいなつかしい気持ちに胸がいっぱいになりました。姉は国見町に嫁ぎリンゴ桃プラムを育て作りながら貝田駅を目下にみおろしリンゴの花摘みながら貨物列車がピーピーと上り坂を汽笛を鳴らして通り行く時若き日に歌った「高原列車は行く」を口ずさみながら畑の中で花摘をしていたにちがいないと思えてなりません。

 そんな兄と姉が大切に歌っていた想い出の曲「高原列車は行く」を私の心の唄として歌い続け大切にしてゆきたいって思います。

塩谷 靖子 様(東京都 76歳)

『柳青める日』  「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」というナレーションがラジオから流れてくるたびに、8歳の私は、意味はよく分からないながらも、必ずと言っていいほど涙ぐんだものだ。それは、NHKの連続ラジオ・ドラマ「君の名は」の冒頭のナレーションだった。今から思えば、幼い私を涙ぐませたのは、ナレーションというより、その後ろで流れていた古関裕而による音楽だったと思う。ドラマの中では、古関自身がオルガンでBGMを弾いていた。スタジオにオルガンを持ち込んでの生演奏だった。その美しく切ない音楽は私を魅了し、母と一緒に毎週ドラマに聞き入った。私が音楽に目覚めるきっかけになったのは、古関メロディーだったのかもしれない。

 そんなとき、母が1ヶ月ほど入院することになった。母は私に、その間のストーリーを報告するようにと言った。目の見えない私は、ドラマが始まる前から、大きな真空管ラジオの前に座り、点字で必死にメモを取った。病院に行くたびに、それを読んで聞かせた。「真知子と春樹が会うことになっていたのに、怖いおばさんが邪魔をしました‥」などと、ほとんど意味も分からずに読んだ。周りにいたおばさんたちも、「こんなに小さいのによくお話が分かるのね」などと言いながら、熱心に聞き入っていた。私は、朗読する前に、あのナレーションのときに流れるメロディーを必ず口ずさんだものだ。

 父は明治40年生まれで、古関より2歳年上だった。古関の歌を愛し、常に口ずさんでいた。 私が1歳半のとき、家族は東京大空襲で全てを失い、鳥取県の海辺の片田舎に移り住んだ。しかし、小学校しか出ていない父には、家族5人を養っていけるだけの給料で雇ってくれる所は少なく、また地元の農家や漁師の仲間に入れてもらうのも難しかった。そこで、私が7歳のとき、私たちは伝を頼って再び東京へ行くことになった。目の見えない私のこともあり、父も母も不安でいっぱいだったことだろう。

 その頃、父がいつも口ずさんでいたのが、サトウハチロー作詞・古関裕而作曲「夢淡き東京」だった。また東京で暮らせるという喜びと、しばらく見ていない東京への憧れ、そして、戦後まもない東京で果たして暮らしていけるのかという不安、その両方の思いが若い父の胸に去来していたのではないかと思う。実際、この歌は、哀感を伴った短調のメロディーで始まり、「かすむは春の青空か」で輝くような長調に転調した後、「誰を待つ心」で再び短調になる。まさに、揺れ動く思いを見事に表した歌だ。

 私たちが東京に着いたのは、銀座の柳が芽吹き、燕の飛ぶ春だった。父が待ち焦がれていた東京での生活が始まった。父は運よく仕事に就くことができた。バラックに住み、井戸で水を汲む生活ではあったが、父の給料と母の内職で、一家5人、何とか暮らしていくことができた。父は、相変わらず古関の歌をよく口ずさんでいた。それを聞いているうちに、私も古関の歌に愛着を感じるようになった。神秘に満ちた「サロマ湖の歌」、重厚な響きの「白鳥の歌」、爽やかで優雅なメロディーの「あこがれの郵便馬車」や「高原列車は行く」、エキゾチックで勇壮な「イヨマンテの夜」、温かく美しい「長崎の鐘」、悲しみとアンニュイの入り混じった「フランチェスカの鐘」などなど。今でも、古関の歌を聞くと、在りし日の父の声が重なってくる。

 古関が若山牧水の短歌に作曲した「白鳥の歌」は、この短歌をさらに格調高いものにしている。歌のメロディーも、伴奏のハーモニーも、実に簡素であるにもかかわらず、牧水の愛した無限の寂しさが胸に迫ってくるから不思議だ。声楽家である私は、この歌をステージで何度も歌ってきた。この歌が、もっと多くの人に知られることを願っている。

古川 昌司 様(福島市 88歳)

 福商野球部の選手兼マネージャーを二年続けてやった人に逢った事はない弟、久次が入部して来たので和田先生の指示で決定した。戦後の学制改革で六年間お世話になった。昭和二十六年の33回大会の甲子園には、宮城、山形、福島の三県代表として大町の竹屋旅館に合宿し優勝し信夫が丘球場から稲荷神社まで優勝旗を先頭に行進、お礼の参拝をしました。甲子園へは、福島駅を夜行列車で東京~翌朝 東京駅から大阪へ向かった。宿は西宮の「中寿美花壇」宿を取った抽選は大阪朝日ホールで本社芥田部長の係になり、ホールに到着順にカードを引き福商は23番で最後の札だった一回戦は不戦勝で高松一高―岡山東高の勝者と対戦する事となった。

 開会式の前日、甲子園で入場式の練習がありグランドの「日本一の芝」正面スタンドの銀傘に目をはり、行進曲に合わせて元気よく行進した。作曲者はだれかは知らずだった。試合は高松が岡山を破り高松一高と対戦する事となり佐藤投手の好投で三安打二失点。福商は佐藤の内野安打一本で牛西選手のランニング本塁打で二点を失点二対0で敗戦となった。

 33回大会の入場式の行進曲の作曲は福商の先輩、古関裕而さんと解りびっくり。当時は宿舎宛に米、味噌を送った時代、福島の電波事情も悪く、ラジオを持って居る人も少なく日中の配電はメーター制で日中の放送も聴けず夕方五時ごろに街燈がついてサクランボ大将の歌にスイッチを入れて居た時代だった。*「栄冠は君に輝く」は抽選会の時に司会者から15部位頂いて私も一枚を大切に持って作詞者は加賀道子、作曲古関裕而になっており、開閉会式の行進に各チームの選手は元気よく行進をした。福商OB会の会食後解散前に「福商青春歌」を唄って散会した。野球部のOB会では「栄冠は君に輝く」で散会するのが常となった。50年記念の集いで作詞者加賀道子さん宛に送った処、非常に喜ばれ、初めて見たと礼状を頂き、その後県北の果物を送付した処、90才を越えたので歯が立たないと次回は、不二家の菓子でもと思っています。以前より甲子園の100回大会には甲子園でお逢いしましょうと約束して昨年八月の100回大会にお目にかかれると思っておりましたが当方に入場券が入手出来ず残念ながら加賀、古関の両家には二組ずつの招待券が送付されたがダフ屋の店として一枚30万で入手出来ればとのこと、私は参加をやめました。

 私の送った「栄冠は君に輝く」の原本は記念館の二階にかざり昨秋は、天皇御夫妻の目にとまり東京オリンピックのポスター下段に掲示してありました。

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